事件は現場で起きていた
とある施設でのこと。 導入担当の先生が麻酔器の前に立ち、いよいよ麻酔開始という場面でした。
…あれ? よく見ると、マスクでの酸素投与をスキップして、いきなり静脈ラインからレミフェンタニルとプロポフォールが流れ始めたんです。 「え、ちょっと待って、前酸素化(脱窒素)は…」と心の中で叫ぶさぬちゃん。 でも時すでに遅し。患者さんの呼吸は止まり、30秒も経たずにパルスオキシメーターの数字が急降下。SpO2 90%をしたまわってアラームが鳴り響き、上級医が飛んでくるという、まさに「あるある」な光景を目の当たりにしました。
「ああ…やっぱりそうなるよね」と思ったあなた。私の仲間です。 この「3分間の酸素投与」の意味とエビデンスについてつれづれに考えてみたい。
なぜ3分間の酸素投与が必要なのか?
麻酔薬を入れると、多くの場合、自発呼吸が止まります。そして気道確保をして人工呼吸を始めるまでのあいだ、患者さんは無呼吸状態。 この無呼吸の時間を安全に乗り切るための“貯金”をつくるのが、プレオキシゲネーション(前酸素化) です。言い換えれば、肺の中を空気中の窒素を追い出して、酸素で満たしておく方法。これを怠ると、貯金ゼロで無呼吸に突入するので、すぐに低酸素になってしまいます。
体内に貯まる酸素のハナシ
カラダの中で酸素を蓄えられる場所は、肺(とくに機能的残気量:FRC)と血液中(ヘモグロビンや溶解酸素)だけ。成人のFRCは約30 mL/kgなので、体重70 kgだと約2,100 mLの空気が肺に残っています。空気(酸素21%)のままなら、その酸素量はたったの
2,100 mL × 0.21 ≒440 mL
安静時の酸素消費量は約250 mL/分ですから、計算上は1分ちょっとで肺の酸素は底をつきます。実際、前酸素化なしの安全無呼吸時間(SpO2 90%まで)は、健常人でも 1〜2分 しかないと言われています。
そこで、100%酸素を3分間吸ってもらうと、FRC内の酸素濃度が90%前後まで上昇。同じ計算で肺内酸素量は
2,100 mL × 0.9 ≒1,890 mL
なんと酸素貯金が約4倍に! 無呼吸になっても健常人なら約8分はSpO2を保てる計算になります。これが「3分の酸素投与」の根拠。言うなれば、カラダの中に酸素ボンベをしこむようなものですね。
※ あくまで“ざっくり概算”です。厳密には肺胞気には二酸化炭素や水蒸気が含まれるので、肺胞の酸素分画は肺胞気式で計算するともう少し低くなります。「だいたいこのくらい貯まる」というイメージです。
ちょっとエビデンスを
- Benumofらの古典的シミュレーション研究(Anesthesiology 1997)[1]
これは実測ではなく、生理学モデルから無呼吸時の脱飽和を試算した有名な研究です。100%酸素で十分に前酸素化した健常成人が無呼吸になってからSpO2 90%を切るまでの時間を 約8分 と算出。同じモデルで中等度の合併症をもつ成人は約5分、肥満患者は約2.7分 と、条件が悪いほどガクッと短くなることも示しています。あの「8分」という数字の出典は、実はこの1997年のモデル研究です。 - Difficult Airway Society(DAS)ガイドライン[2,3]
DASは2015年版[3] の時点で「全例、全身麻酔導入前に前酸素化を行うべき」と明記し、目安としてEtO2 0.87〜0.9(87〜90%)を示していました。そして2025年に大改訂された最新版[2]では、フェイスマスクによる前酸素化の効果判定として、一般にEtO2≧0.9(90%) を目標とすることがはっきり書き込まれました。ここでひとつ、大事なニュアンス。この「≧0.9」は“全例で必ず90%まで上げろ”という必達ラインではなく、あくまで「一般的に!フェイスマスク使用時に目指す目標値」です。HFNO(高流量鼻カニュラ)を併用するとEtO2モニタリング自体の信頼性が下がるため、この数値をそのまま当てはめられません[2]。さらに肥満や妊婦では、手を尽くしてもフェイスマスクで90%に届かないことがあり、その場合は「到達可能な最高のEtO2」を狙うのが現実的な落としどころです。つまり、“前酸素化の実施”は全例マスト、“EtO2 ≧0.9”はフェイスマスクでの目標"と分けて押さえておくと正確です。 ちなみにDAS 2015[3]の本文には、「健常成人の安全無呼吸時間は室内気で1〜2分、前酸素化で8分まで延長できる」という、まさに今日の話そのものの記載もあります(出典はBenumof[1])。 - 肥満・妊婦では要注意
FRCが小さく酸素消費量も多いため、しっかり前酸素化しても安全無呼吸時間が短くなりがち[1]。そういう患者さんほど「マスク3分」の重みが増します。緊急帝王切開の現場などはまさにここが勝負どころです。
実践での「さぬちゃんポイント」
- “時間”より“EtO2”で判断する時代。「3分」はあくまで目安。EtO2モニター(通常のEtCO2モニターではEtO2も表示できる)が使えるなら、3分という時間ではなく EtO2が0.9(90%)に到達したこと をエンドポイントにするのが、いまのDAS推奨[2]です。逆に時間に余裕があれば5分かけてもOK。ただし“全例で90%”という意味ではなく、肥満・妊婦などで届かない患者では、到達可能な最高値を目指せばOKです。
- マスクの密着が命。リークがあると室内気が混ざり、EtO2が上がりません。両手でしっかりホールド、もしくはストラップの併用を。新鮮ガス流量も十分に(少なくとも分時換気量を下回らないように)流しておくと、より短時間で高いEtO2に到達できます[4]。
- 時間がないときは深呼吸法。最大吸気・呼気(vital capacity breath)を60秒間に8回行うと、3分間の通常換気とほぼ同等の前酸素化効果が得られると報告されています[5]。導入を急ぐ場面で覚えておくと便利。
- 肥満患者はポジショニングで稼ぐ。仰臥位より 25°の頭高位(ベッドアップ) で前酸素化したほうが効果が高い、というRCTがあります[6]。FRCが稼げない患者ほど、頭を起こすひと手間がものを言います。
- アプネイックオキシゲネーションとの合わせ技。無呼吸中に鼻カニュラで酸素を流しておく「無呼吸時酸素化(apneic oxygenation)」を併用すると、安全時間がさらに延びます。15 L/分の経鼻酸素でも延長効果が示されており[7]、高流量鼻カニュラ(HFNO)を使う THRIVE[8]では、困難気道の患者でも無呼吸時間を大きく延ばせることが報告されています。余裕があれば併用を。
まとめ:貯金してから飛び込め!
誰でも忙しさや思い込みで「まあ大丈夫でしょ」とやってしまいそうになるのが、この3分間の酸素投与を省略してしまうこと。実際、低酸素になってからでは手遅れで、上級医の雷が落ちるだけで済めばいいほう。患者さんの安全を守るためにも、麻酔薬投与の前には必ずプレオキシゲネーションを習慣にしたい(導入前タイムアウトで確認しても吉)。
「3分間、ただマスクを当てている時間」が、あなたと患者さんの保険です。 そしてEtO2モニターがあるなら、ぜひ“数字(≧90%)”で確認するクセを。いつも安全な麻酔を。セコムしてますか?という長嶋茂雄さんのコマーシャルを思い出すさぬちゃんでした。
では、また
参考文献
- Benumof JL, Dagg R, Benumof R. Critical hemoglobin desaturation will occur before return to an unparalyzed state following 1 mg/kg intravenous succinylcholine.
Anesthesiology. 1997;87(4):979-982.
DOI: 10.1097/00000542-199710000-00034 - Ahmad I, et al. Difficult Airway Society 2025 guidelines for management of unanticipated difficult tracheal intubation in adults.
Br J Anaesth. 2026;136(1):283-307. (オンライン先行公開 2025年11月6日)
DOI: 10.1016/j.bja.2025.10.006 - Frerk C, et al. Difficult Airway Society 2015 guidelines for management of unanticipated difficult intubation in adults.
Br J Anaesth. 2015;115(6):827-848.
DOI: 10.1093/bja/aev371 - Nimmagadda U, et al. Preoxygenation with tidal volume and deep breathing techniques: the impact of duration of breathing and fresh gas flow.
Anesth Analg. 2001;92(5):1337-1341.
DOI: 10.1097/00000539-200105000-00049 - Baraka AS, et al. Preoxygenation: comparison of maximal breathing and tidal volume breathing techniques.
Anesthesiology. 1999;91(3):612-616.
DOI: 10.1097/00000539-200105000-00049 - Dixon BJ, et al. Preoxygenation is more effective in the 25 degrees head-up position than in the supine position in severely obese patients: a randomized controlled study.
Anesthesiology. 2005;102(6):1110-1115.
DOI: 10.1097/00000542-200506000-00009 - Weingart SD, Levitan RM. Preoxygenation and prevention of desaturation during emergency airway management.
Ann Emerg Med. 2012;59(3):165-175.e1
DOI: 10.1016/j.annemergmed.2011.10.002 - Patel A, Nouraei SAR. Transnasal Humidified Rapid-Insufflation Ventilatory Exchange (THRIVE): a physiological method of increasing apnoea time in patients with difficult airways.
Anaesthesia. 2015;70(3):323-329.
DOI: 10.1111/anae.12923